昨年の今頃、弥勒菩薩像


暑くなってきた。もう半袖で外出してもいいくらいだ。さて、ふと、昨年の今頃は何をしていたのか気になったので、2016年の5月のあたりの自分のブログを見てみた。

この頃は、岐阜と京都を往復している。考えてみると毎週岐阜と京都の往復は大変であり、けっこう、ぼやいたりしていた。でも、何とか積極的に受け止めようとして、細かく駅や列車のことについて書き記していた。ブログの利点は日記代わりになるので、過去に自分が何をしていたのか確認できる点が挙げられる。

昨年(2016年)の5月22日は、京都の弥勒菩薩像を見に広隆寺を訪れている。そして、別のブログだが、調べると一昨年(2015年4月5日)にも自分は広隆寺を訪れている。

広隆寺を訪問するのは、自分の以前住んでいた京都のアパートから近くて歩いて行ける距離にあるからだ。それから、弥勒菩薩像を見ることも自分の大きな楽しみであった。

思い出すのは、2年前の時に、弥勒菩薩像の前に赤い服を着た女の人、中年の女の人だったが、一生懸命に祈っていた人がいたことだ。この女の人は、ひざまずいて一心に祈っていた。

何を祈っているのだろうか。微動だにしないで祈っていた。(これからは自分の想像で根拠があるのではないが)その人は、大きな苦しみをかかえて弥勒菩薩の慈悲に頼ろうとしていたように思えた。その人は自分が館内を一回りしてきて、その像の元に戻ってきても、まだ祈っていた。30分以上も、(私の来る前からだから、一時間以上かもしれないが)、膝付いて祈っているのだ。

何を祈っているのか、愛する我が子を失った苦しみを訴えているのか、病気の夫の治癒を祈っているか、自分自身が不治の病に冒されていて救いを求めているのか。

その理由は分からない。でも、その人は何か苦しみがあると、広隆寺の弥勒菩薩像の前にきて、一心に祈ることで、何らかの安らぎを得ていることが分かった。

そう、自分も苦しみに面したら、安らぎを与えてくれる仏像を見つけたい。ー昨日は岐阜公園近くの岐阜大仏を参拝した。でも大仏は巨大すぎて、見上げるだけであり、親近感はいだけない。でも仏の大きな慈悲は感じることができた。でも像は大きすぎるな。

岐阜のこのあたりにも小さなお寺がたくさんある。ふと、散歩で境内に入り、あまり知られていない仏像の前にたたずんだり、ふと路傍の地蔵の姿を写真に写したりと、けっこう、心の安らぎを得られる機会は多い。

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