霧が深い日である。


正月は暖かい日が続いていた。今日は、やや寒いかな、という感じだ。でも、今年の日本列島は暖冬である。

さて、今日、歩いて学校に向かうのだ。霧が出ている。この岐阜県は、霧が多いという印象だ。京都に住んでいたときは、こんなに霧は多くはなかった。冬はかなり寒かったが、桂川を渡ってゆくと、寒風が吹き抜けてゆくことがあった。でも、晴れている日が多かった。

岐阜はどうも、美濃の国は昔から水の豊富なところとして有名である。水道水もおいしいと聞く。さて、歩いてゆくと非常に霧が深いところに来た。あるいは、雲が低く垂れこめているだけなのか。

霧が深い

毎日、こんな景色を見ながら、職場へと向かうのである。稲は収穫の後であり、黄色で自然は美しくない。歩いていながら、何を考えているのか。たいていは、BBCというイギリスの放送局のニュースを聞いている。イギリスや旧植民地(インド、アフリカ、カナダ)のニュースが多い。日本ではあまり話題にならないニュースを聞けるので自分には貴重な情報源である。ニュースに誘発されて、様々なことを考える。

今日は中国人の女性作家で何とかという人(外国人の名前は本当に覚えづらい)の特集をしていた。この人は英語で小説を書いている。でも、体制に批判的な小説を書いているようではない。女性としての生き方、結婚を通して自己実現はどうあるべきかというような話をしていた。どうやら、世界中で人々が自己実現とは何か、自分とは何かという問いかけを絶え間なく行っているようだ。

私ももうじき70歳になる。こんな老人でさえも、いまだに自分とは何か?と問いかけている。日本で老人として生きてゆくことの意味は何か、と自問自答しているのだ。答えはあるのか。答えは、この霧の中にさまよっているように見つからない。

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