昨日は、岐阜県に関するブログにいろいろと記事を書いていた。このブログは数か月前に立ち上げたのだ。そして、自分自身の勉強もあって、知ったこと、学んだことを、そのブログに書き加えている。
昨日は、「岐阜の文学の香りを味わいましょう」という記事に、いろいろと書き加えていった。岐阜県はあんまり文学作品の舞台としては、華々しく取り上げられることはない。小説の舞台としては、地味であるようだ。でも、岐阜県の文学ということで、ネットで検索すると、12冊ほどの本があった。
そのブログで紹介した12冊だが、自分が読んだことのある本は『高野聖』だけである。『高野聖』の印象だが、幻想小説であるが、小説自体には関心は持てなかった。ただ、明治の時代は、まだ未踏の地が日本にもいくつかあって、そこでは何か神秘的なことが起こっているという幻想を人々は持っていた時期なんだな、ということが分かった。その点は興味深かった。
今では、日本の至る所、いや世界の至る所が俗化して、神秘的な場所はなくなってしまった。自分が『高野聖』を読んだとき、日本の険しい山や深山がまだ神秘的な雰囲気を漂わせていた古き良き時代を味わうことができたのだ。
自分は12冊のほとんどを読んでいない。有名な『国盗り物語』を自分は読んでいない。『夜明け前』も読んでいない。川端康成の本も読んでいない。
川端康成が岐阜県と関連が深いことも知らなかった。長良川出身の伊藤初枝という女性と婚約して、それが破棄となったこと、この事件から川端康成はいくつかの小説を書いている。
川端康成は22歳の時に、15歳の女性と婚約をする。この時代は平均寿命が短かったから人々は生き急いだのた。50歳前後で多くの人はなくなっている。伊藤初枝も44歳でなくなっている。
この小説自体は、ネットで調べたが、どうも内容が重そうだ。あまり読みたいとは思わない。川端康成みたいに自分の私生活を念入りに語るという手法は、読者からすると時々重く感じて負担に思ってしまう。
とにかく、自分が岐阜県について作成中のブログを、何とか今年中にまとまったものにしたいと考えている。観光関係の授業では、よく学生が担当した観光地の発表をする。自分はそれらを丹念にノートに載っていて、何とか自分のブログに転記できないかなとも考える。
現在のところの問題は、ブログで紹介してある観光地や行事のほとんどを自分がまだ行っていないという点だ。自分でも訪問して、自分で見聞きしたら、紹介記事にも厚みや現実性が増すのだろうと思うが。
下の画像は、養老のサービスエリアの看板だ。岐阜のお土産のベスト3だ。自分はまずこれらを味わってから、人々に紹介してみたい。
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