○
この時期は4年生の卒業論文の指導をする。何回も読み直していると私自身も影響を受けてしまうことがある。ある学生は、新しいコミュニティーのあり方を模索しているようだ。そして、その学生自身の行き方とも重ね合わせて論文を執筆している。
その学生の論文に対して、私自身の見解を加えて色々と考えてみた。
昔は血縁は大事だった。親戚が次から次と家に来て、親戚の子供たちとばかり遊んでいた。今は親戚たちとの繋がりも薄れた。自分よりも年長の親戚がほとんど逝ってしまったし、その親戚たちも子供の数が少なくて、孫ともなるともっと少ない。我が家が付き合いがあるのはほんの数名だけになった。
地縁もない。私は引越が多かったので地域のつながりはほとんどない。今住んでいるアパートで知っている人は、顔を知っているので、会えば挨拶はするが、それ以上のつながりはない。
職縁はどうか。昔の職場は家庭的な雰囲気があった。会社が個人のすべての面倒を見たのだ。一生その会社に仕えて面倒をみてもらう。社長を父親と慕って、同僚は兄弟姉妹と考える。社内の運動会があり、懇親会が頻繁にある。結婚式は同僚のほとんどが参加して祝い、葬式があれば、全員が参加して哀悼する。でも、今の時代は、パートや派遣、嘱託など様々な形態の仕事形態だ。正規社員ほどの忠誠心は期待できない。バラバラな人間関係の寄せ集めだ。
現代は人と人とのつながりが薄くなった時代だ。でも、人間はやはり人と人とのつながりを求める。やはりコミュニティーを作りたがる。でも、そのコミュニティーは血縁、地縁、職縁から生まれるのではない。「思いを同じくする」人々が集まって、コミュニティーを作るのだ。
その学生が上げている例は、白川郷でイベントをしようとすると、その手伝いをする人間をネットで募ると人々が集まる。その人々が共同で作業して一つの成果をあげる。終了すると解散して、また次のイベントを求めて世界各地へと散らばってゆく。
その学生は自分の行き方として、そのようなイベントの誕生、成果遂行、そして、次のイベントへの移行、そのような人の流れに関わって生きてゆきたいと思っているようだ。具体的には、企業や自治体への企画の売り込み、受注、集金、人集め、コミュニティーの確保、そんなことをすることだ。
そのためには、高度なコミュニティー能力、営業力、ネットワークなどが必要だ。でも、それが新しい生き方で、若い人にはアピールする生き方なのだろう。
私自身は今までは大きな組織に依存して生きてきた。独立して何か行うという度胸はなかった。でもこれからは、豊かな時代であり、様々な行き方を許容できる時代になったようだ。この学生が卒業後も自分の思うように生きていければと願うのだ。
コメントを残す