大阪大学の卒業式があった。


今日は次男の卒業式があった。卒業式は大阪城ホールであり、今日は岐阜から大阪まで車で往復した。さて、大学からの案内には、保護者が参加する場合は、「10時半までに入ってくれ」と書いてあったので、早めに岐阜を出発した。朝の5時半ぐらいだ。家内は4時半ぐらいに起きて化粧したりと大変であった。

さて、まだ薄暗い中、出発をする。岐阜羽島から高速道路に乗る。順調に西へ向かう。途中の多賀のインターで朝飯を食べる。スタバだ。コーヒー一杯とホットドックだ。そこで30分ほど休む。

大阪城ホールの近くに来たが、途中で車を有料駐車場にとめて、そこからタクシーを拾って大阪城ホールまでゆく(タクシー代は860円だ)。受付で保護者招待券を見せてパンフレットをもらう。まだ、人の数は少ない。

さて、10月50分ぐらいから壇上に大学関係者が並ぶ。ガウンとキャップを着用している。これは正式には Toga という礼装だ。大阪大学の学長や学部長には、これが卒業式の正装である。

トーガが正装だ。

さて、学位記授与式のアナウンスがある。すると、すぐに学位記の授与が始まり、代表の名前が呼ばれる。○○学部、代表○○という具合だ。学部から始まり、修士、そして博士へと名前が呼ばれる。阪大は、巨大な大学で、たくさんの学部学科があるので驚きだ。

修士だけで2000名ほどが修了だ。そして、博士もかなりの数がいる。学部教育よりも大学院教育に力を入れている大学という印象だ。そして、成績優良者の名前には外国人学生の名前も多い。それだけ多国籍の学生を受け入れている大学ということだ。

阪大の卒業式、たくさんの人だ。

女性は華やかに着飾った人が多い。袴も多いが、着物姿、振袖の女性も多い。男性でも和風に着物を着ている人もいた。

次男とは携帯電話で連絡を取り合った。あまりに人が多いので、どこに次男がいるのかが分からないので、保護者席の近くまで来てもらい、互いに確認をとった。

総長の式辞があった。平成という時代が終わり、新しい年号の年が始まろうとしている。平成は自然災害の多い時代であった。神戸の大地震や東北の大地震などがあった。自然の中の人間の無力を知らされる日々であった。しかし、若い人たちは、そんな時代でも、力強く切り抜けていった欲しいという内容のスピーチであった。かなり長いスピーチであったが、総長はメモを見ることなく、すべて頭で覚えていて話をしていたのには驚いた。

式は、総長のスピーチだけで、来賓挨拶とか、卒業生や在学生の挨拶などもない。1時間ほどの式典であった。終わりは、男声合唱団による「オールド・ラング・サイン」があった。さらに、阪大のオーケストラによるエルガー作曲『威風堂々』があった。

式の後、次男と外で会う。たくさんの人だ。次男も4年間、よく頑張った。でも、この4年間はあっというまだ。次男と昼飯を一緒と思ったが、すぐに学部の卒業式があり、そこで学位記を受け取ったりするそうだ。であるから、時間の余裕はないので、すぐにお別れだ。

私は実は、明後日はまた大阪に行って次男の荷物の搬出を手伝う。次男はベッドもないので、今は床に寝ているそうだ。会社が始まるまで、岐阜に泊まるかもしれないという。

式典の後

会場の外に、たくさんの人がいる。見知らぬ人の写真を撮ってしまった。ごめんなさい。

さて、会場外にはこれまた人人の群れだ。阪大が大きいので驚くほどだ。次男が入学した時の記録を探すが見つからない。その時はまだブログは初めていなかったかな。過去の記録を調べると、長男が2年前の3月24日に大学を卒業している。その時の記事を下に掲げる。自分にとっては、これも懐かしい。長男は今は東京で働いている。

子供達の巣立ちは色々と感慨無量なものがある。子供の育ちは、親にとっても大きな転機だ。人生の新たなページが始めるのだ。

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