草津のPAで休む。

今日は京都から岐阜へ高速道路を使って戻った。大変な渋滞であった。本当はもう数日ゆっくりと京都に滞在したかったが、明日は勤務校の仕事始めの行事と新年会のパーティがあるので、岐阜に急いで戻った次第である。

高速道路の運転の途中で眠くなった。うつらうつらと我慢できなくなった。何だか車線を横に超えたりと、ジグザグ運転をしていたように感じる。これは大変と思って、暖房を切って、わざと車内を寒くして、何とか眠気を取り去ろうとした。しかし、どうにも眠気は収まらない。仕方ないので、草津のパーキングエリアで休むことにした。

売店で熱いコーヒーを注文する。コーヒーを飲んだらすっきりとした。PA内をちょっと散歩することにした。すると端っこに草津宿と刻まれた石碑を見つけた。

草津宿の石碑

石碑の説明によると、草津は東海道53次で52番目の宿だそうだ。Wikipediaの説明は以下のようだ。

 

 

 

 

草津宿(くさつしゅく、くさつじゅく、くさつやど)は、近江国栗太郡にあった東海道五十三次の52番目の宿場で、中山道が合流する。現在は滋賀県草津市市街。本陣が現存し、国の史跡に指定されている。

なるほど、そんな由緒のあった場所とは知らないで、ここを自分は単なる休憩所と考えていたのだ。歌川広重の版画にも草津宿の様子が記されている。下にその画像をはりつける。この時代は徒歩で移動なのだ。53番目の宿が大津宿である。

その当時の人々は健脚であったので、草津、次の日は大津、そして次の日は目的地である京都の三条大橋にたどり着く。三条大橋の橋の横には、『東海道中膝栗毛』の主人公である弥次さんと喜多さんの像もある。

お江戸日本橋から京都の三条大橋まで53日ほどで到着のことだ。この当時の人々の旅はロマンティクであったろうと推察する。この時代の旅に憧れる。

現代の私は、広重や弥次さん、喜多さんが苦労して歩んだ道を自動車で疾走する。しかし、見えてくるものは何もない。歩きながら観察した江戸時代の人の方がはるかに多くのことを見たようだ。

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