医療テキストのチェックと電柱の話


昨日は、医療テキストをチェックしようと計画していた。歩いて学校に到着する。まず非常勤講師関係で提出する書類を作成する。わずか、2枚だけの、必要事項を記入するだけの書類だけだが、神経を使った。午前中をほぼ使ってしまう。その書類を学内にあるポストに入れた。これでこの件は一件落着だ。

さて、チェックをしようとしたが、腹が減ってきたので、おにぎり一個とパンを一個食べる。そしたら、眠くなってきた。椅子の上で、うつらうつらしていた。春休みだから、誰も来ない。30分ほどボーツとしていた。

さて、これから医療テキストのチェックだ。一応、書きあげたのだが、あと3、4回は見直す予定だ。読み始める。うーん、眠くなる。最近、難しいことをしようとすると眠くなる。

文章だが、探偵小説ならば読めるだが、難しい資料を読もうとすると辛い。老眼もあるし、集中力も欠けてきたし、と若い頃のようにはいかない。

でも、午後の1時ぐらいから、急に気持ちが乗ってきて、チェックがかなり進んだ。でも、3時間ほどで急に疲れを感じる。でも、3時間ほど気合いを入れて行ったので、かなり内容が整理整頓できた。それで、その日は、こんなところでいいかと切り上げることにした。

帰りとぼとぼと歩く。12月の末は5時ごろでもかなり暗かったが、3月ともなると5時はまだ明るい。電信柱を見上げる。昔と比べて電柱が背が高くなっている。電柱が木でできていた時代は、こんなに電柱は高くはなかった。どうしてか?なぜ、昔と比べて、電柱を高くしたのか。2倍ぐらいの高さになったように感じる。

田舎道に沿って立っている電柱を見ると、何か兵隊たちのように感じる。あるいは恐竜たちか。とにかく、生き物だな、ちょっと不気味な生き物のように見える。

人間の目は選択的である。自分が見たいものしか見ない。空を見て、その青さや雲の動きなどには感動する。でも、空に張りめぐされた電線や、高圧線の鉄塔には無関心か、あるいは無意識のうちに視界から落としてしまう。

などと電柱を見ながら考える。詩がありそうだ。電柱の詩だ。電柱の違和感、孤独、孤高。自然との厳しい断絶などをよんだ詩がありそうだな。

今日は、次男が岐阜に来るのだ。お昼頃に迎えにゆく。

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